−事前打ち合わせ−


現在進行中のプロジェクトも最後の追い込みに入り、
残りの4曲を集中的に作曲するため、
湿度が低く空気の良い清里に滞在しようと思い立った。

ムービーに関しては、前日に担当者と打ち合わせを行い、
英語でイメージを書き添えてある4枚の絵コンテをもらった。
大まかなタイムラインも決まり、
「実際の製作では音楽に映像を合わせたいので、
音楽先行でお願いします。」とのこと。

すでに脳内では、この数日間のうちに形になるであろう音楽の、
波動の素粒子が動き始めている感じだ。


−カモシカの群れ−


早朝に東京を出発したので、アッという間に雪の残る小淵沢に到着した。
寒いホームを小走りに、2両編成の単線電車「小海線」に乗り込んだ。



電車に揺られながら、雪の線路&白樺林という、
ちょっと幻想的な風景を10分位楽しんでいると、
突然、乗っていた小海線がクラクションとともに停車した。
なんと、前方の雪の積もった線路をカモシカの群れが悠々と横切っていった。
感動とともに、ひたすらカモシカの一挙一動を観察していた。

そして、雪積もる清里に到着。やはり予想していた以上に寒いが、
都会の寒さとは違い、なんと言うか「心を閉ざす」ような質の寒さではない。



缶コーヒーを買いタクシーに乗り込み、
シーズンオフでガランとした清里駅を後にした。


−音楽堂−


東京から3時間、木々に囲まれた音楽堂に到着した。
周辺は白樺と雪の白で眩しいくらいだ。風もなく物音ひとつしない。
ここには、都会ではお金を出しても手に入らない本物の静寂がある。

静寂こそ最高の贅沢!
と、父が言っていたことを思い出す。



早速、ここのオーナーが出迎えてくれ、音楽堂に案内してくれた。
オーナーの配慮で前日より暖房を入れておいてくれたおかげで暖かい。
すべて木で造られたこのホール、木の香りと静寂が心を落ち着かせる。

そして、ひっそりと一台のグランドピアノが出迎えてくれた。



ウォーミングアップに、イーハトーヴォ物語の「雪げしき」を弾いてみた。
やはり東京での音とは違い、自然に囲まれていることもあり周囲の空気と調和する。
木に反射する音はアコースティックなニュアンスを増幅する。

この2日間、この空間を一人で占有して何が生まれるか?
準備万端だ。





−スケッチ開始−


さて、スケッチ開始だ。
しかし、その前にやらなければならないことがある。それは、腹ごしらえ(笑)
自然に囲まれると細胞が活性化されるのか、いつも食いしん坊になる。

人の集まるところに食べ物屋あり!ということで、
近所(といっても距離単位はkm)のスキー場に足を運んだ。
山の上は少し吹雪いていた。



お腹がすいて我慢できなくなり、早速、レストランへ駆け込んだ。
¥1000のステーキランチプレートを食べたのだが、
これがまたなかなかに美味しかった!
野菜も肉も、東京ではこの値段ではありえないくらい素材自体が良い。
食後のコーヒーも終わり、お腹が落ち着いたところで、
スキーをしたい気持ちを抑えながら戻ることにした。
帰りのタクシーはノロノロ運転で時間もだいぶかかりそうだったので、
東京での打ち合わせの際のイメージを思い起こし、具体的な方針を考えた。

音楽堂に戻ってからは半円形の机とピアノの間を行ったり来たりして、
五線譜に曲構造スケッチや音符などを描いていった。





−トラブル発生−


突然の出来事だった。中央付近の「F」キーがおかしい・・・・
ff(フォルテシモ)、pp(ピアニシモ)以外のレンジで、
打鍵後に鍵盤が若干沈んで戻らなくなる。再び打鍵しても音が出ない・・・

ピアノの屋根蓋を開けたら、ピアノのフレームにびっしりと水滴がついていた。
真冬の寒さに冷たくなっていたピアノが、暖房で暖められたために発生したものだ。
これはかなりショックで、あれこれ試してみたがどんどん調子が悪くなっていく。
よく見ると他の鍵盤も若干だが、戻りにバラツキがある。
とりあえずの演奏は可能だが、Fだけは全く音が出なくなってしまった。
原因は、ハンマーなど木で構成されているメカニック部分が湿気ってしまい、
正常動作できないためだ。

こんな山の中に調律師を呼び寄せるわけにもいかないので、
とりあえずピアノは置いておいて、五線譜にスコアを書き始めた。



対策として、
ピアノを出来るだけ乾燥させるために蓋を開けっ放しに、
また、暖房器具も複数設置して一昼夜一定温度を保つようにした。







−夕食−


午後7時。
スケッチも半分ほど進んだところで窓の外をみると、静かに雪が降り始めていた。
宿泊するコテージに戻り夜ごはんを食べることにした。オーナーが用意してくれた、
暖かいスープと新鮮な野菜、魚のパイ包み焼き、チキンのトマトソースなど、
本当に美味しくて、幸せなひとときを過ごした。
どの食材も無駄なく消化されて体の一部になっていくような気がした。



−復活の兆し−


夜8時頃、再び音楽堂へ。
スケッチも進んだところで気分転換にピアノに向かった。
弾いてみると・・・なんと、全く音の出なかったFキーの音が、
5回に一回くらいの割合で、音が出るようになっていた。
多分、ピアノが乾燥してきたのだろう。
目に見えている部分では水滴は確認されなくなっていた。

この調子でいけば、明日には復活するかも知れないと思った。

スケッチは順調に進み、残すところは叙情的なフレーズ個所のみとなった。
時間は夜11:30。東京では「夜はこれから!」だが、山の中は昼間でも静寂
なので、わざわざ夜の静寂を待つ必要もない。

山小屋風の部屋に戻り、窓を開け冷たい風を取り込み深呼吸。
自然の流れに身をまかせて早めに寝ることにした。



−驚愕の大変化−



翌日は7:30に静かな朝を迎えた。
朝食と一杯のコーヒーを飲み終わり、音楽堂へ向かった。



ウォーミングアップに、少し寝ボケまなこではあったがピアノを弾いた。
最初の数フレーズでとたんに目が覚めた!ピアノが昨日と全然違う!例のFキー
は何事も無かったように音が出るし、他のキーのバランスも見違えるような反応
だ。音も表情豊かに即座に反応してくれる!

このピアノ・・・一晩かけて大変化を遂げていた!

いやピアノだけでなく、音楽堂の響きも違う。
ピアノの直接音とホールの間接音のバランスも良く、しかも反応速度が速い!
本当に驚いた。今回ほど、楽器や空間が「生き物」だと感じたことは、
いまだかつてなかった!



ピアノがこちらに向かって、「待たせたね。準備OKだよ!」と余裕の表情を浮かべている。



−ラフマニノフのコンチェルト−


作業に入り、曲の構造体の一部であるモチーフもいくつか生まれたので、
気分転換に、13歳頃から愛奏しているラフマニノフ作曲のピアノ協奏曲第3番を弾く。

凄い!昨日からは考えられないような反応速度を見せてくれ、
同音連打の早いパッセージにも余裕で追従してくる。

40分もある極めて重量級の曲なので、
熱くなり過ぎると心身ともに終わってしまう危険があるのだが、
「まあ、熱くなったときは外に出てアイスクリームを食べればいい!」
、などと安易に考え、結局のところガンガン弾いてしまった。

弾いていて、特に第二楽章♪のロシアの歌に大地の魂が宿るような気がした。



・・・・・・・・・・すでに2時間経過。

熱くなった頭と体を冷やすため、
外にある白いテーブルでコーヒーを飲もうと上着を着ずに外に出た。
冷たい空気が心地よい。
・・・でもやっぱり、思いっきり寒い。そういえば今は真冬だった。
冷たくなったコーヒーを片手に音楽堂に戻った。

曲スケッチもかなり進んだところでお腹がすいてきたので、
再び例のレストランに出向いた。ポークカレーを注文したのだが、
食べてみると何故かポークとビーフの両方がたっぷりと入っていた。
・・・???いまだに謎。



−自然VS鋭角的音楽−



再び音楽堂に戻り集中的にスケッチの仕上げを行った。
数時間後、この清里で予定していた作業が滞りなく終わった。
コーヒーを片手に、静かな木の空間でリラックスしていたのだが、
作業が終わった開放感からか?イタズラ心が芽生えてきた。

自然VS無機質のアンバランスを楽しんでみたい!

木のぬくもりに囲まれた音楽堂で前衛的で鋭角的な響きの曲を弾くとどうなるだろう?
と思い、プロコフィエフ作曲のピアノソナタ第7番(「戦争ソナタ」と呼ばれている)の
第3楽章(7/8拍子)を弾いてみた。



弾き終えた感想は・・・「自然は大きい!」

どんなに鋭角的にアプローチしても、このアコースティックな空間は余裕で全部受け止めてくれる。
東京のスタジオなんかだと、楽器や空気や人が悲鳴を上げ息苦しくなったりするくらいなのに。
2〜3時間の間、あの曲は・・・?この曲は・・・?と古典から現代までたっぷりとピアノプレイを楽しんだ。
長いような、短いような、やっぱり長いような?東京とは時間の感覚がまるで違う2日間を過ごし、
とうとう世話になった音楽堂とピアノに別れを告げる時がきた。
出来上がったスコアをバッグに入れ、感謝の気持ちを胸に音楽堂をあとにした。

「また会う日まで!」



−帰途−

偶然、甲府から同じ特急電車に皇太子が乗ってきた。
車内通路は、学生にしか見えないくらい若い女性警備が行ったり来たりして目を光
らせている。しかしながら、ゴミ箱をあさっている姿は、なんとも形容し難い風景だった。
「テロリストに間違われたらどうしようかな(笑)」と少し緊張してしまった。

東京に近づくにつれて、なんとなく時間がせわしくなってきた。

さて、出来上がったスコアをもとに東京でのレコーディングが始まる。





2005年冬 執筆 多和田 吏

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